三等辺三角形

事実を洗うための作り話。

仔猫を死なせた日のこと。

恋人と過ごした日の終わりに二人で寄ったドラッグストアの駐車場の区画内で、単身でよちよち歩く仔猫を見つけた。

「にゃんこ!かわいいー!」と彼女が顔を綻ばせたその数秒後。後進で駐車しようとするSUV車の大きなタイヤの一つが、仔猫の胴体の上を何の音も抵抗感もなく通過した。僕は呆気に取られて何も言えなかった。彼女は声にならない悲鳴のような音を放ってすぐに、震えながら言った。助からない?死んじゃう?助けられない?

遠目ではあるが、その終始を見て分かっていた。仔猫の柔な肋骨はすべて折れて無事な内臓は一つも無いだろう。おそらく背骨だって折れている。ぼろ雑巾みたいな状態で辛うじて頭と前脚がバタバタ動いている。仔猫は死ぬ。数分ももたない。当たり前だ。関わらない方がいい。 

 

自動車での事故に限らず、社会を生きていれば誰しも無意識に様々なことにフタをしている。路上に転がる動物の死骸やそれに準ずる悲しい出来事すべてに「なんて可哀想なんだろう」と素直に心を擦り減らしては、効率良く生きていけない。ある程度無関心でなくては自分を守れない。少なくとも僕はそういう風に自分を守ってきたが、同時に隣の彼女がそうでないことも知っていた。

 普段通りの水準でこの事態を避けきれば、僕は僕を守ることができる。だが彼女はそうではない。あの雑巾のようなものを「全力で救おうとした」今日でなければ、彼女は最低限に健全な明日を迎えられない。まあほんの形だけでも、演じればいい。僕は結構な演者だ。守れる。大丈夫。

 

彼女を車内に待たせて、仔猫の元に駆け寄る。前脚がわけのわからない方向に動いている。口から血を噴き出して、肛門からも多量に出血している。胴体が"薄い"。肋骨が何本か出ている。もうダメだろう。すぐさま車に戻り「多分ダメだ」とだけ伝える。彼女は泣き止まない。

ようやく異常な空気を察したのか、仔猫を轢いた車から人が降りてくる。何にも害意の無さそうな、優しそうなカップル。2人ほぼ同時に自分たちの足元すこし先で動き回るそれに気付き、声を飲み込む。遅すぎる。

 

こんな時どうすればいいのか分からないが何もしないよりは何か教えてくれるかと119番に電話を掛ける。コール音を聞きながら、話すべき内容と順序を組み立てる。

「すみませんざっと話します。まずお門違いでしょうが人間の話ではなくて、いま数分以内に仔猫が車に轢かれまして、僕に医療知識はありません。可能ならこのスマホGPSの現在位置から最も近い動物病院、開いているところを教えてもらえないでしょうか、直ちに分からなければこちらから順番に電話しますので、電話番号をピックアップしてそのまま最速で羅列してください、メモを取ります」

半ば機械音声のように話しながら、隣にメモの道具を出すようジェスチャを送りながら、「こんなの仮に運び込めても夜間だわ保険利かないわで費用何一つ保証されてない上に、万一ボロボロでも生き返っちゃったらほんと、最後までウチで面倒見るんだろうなあ」とか考えながらも突っ走ってしまっている本来のものでない自分が可笑しくて、不思議だった。

このような内容の通報がよほど特殊だったのか、電話口の少し狼狽えた反応(それでもおそらく30秒ほどだった)のあと「お待たせしました。不確かですが受け入てもらえそうな所から順に、電話番号を申し上げます。◯◯動物病院、076〜」と返答が来る。

メモを取りながら現場に戻ると、もう状況は終わりに近付いていた。何がどうとは言えないが、曲線が静かにゼロに近付いていることだけははっきりと分かった。

もう終わるのか。いや、分かってたんだけど。もう、終わるのか。

 

目の前で命が消え行く様があまりに辛く、なぜかボロボロのそれを両手に抱いた。生温かくヌメヌメしたソレが弱く弱く震えて、そこから1分も経たないうちに止まってしまった。体感時間は何十倍にも感じた。

外野が呼んだのであろう、ドラッグストアの店員が古びれた毛布を持ってきた。その上に仔猫だったものを降ろし、血を拭う。先程無意識に地面に放り投げたスマホを探して、拾い上げる。まだ通話が切れていないのを確認し、「だめでした。ありがとうございました」とだけ伝えると、「残念です」と返った。

 

彼女は泣き止んでいて、僕に「ありがとう」とだけ言った。 "僕一人なら手出ししなかったであろうこと" はお見通しだった。

仔猫を轢いた車の主はおそらく最後まで、自分たちが轢いたとも自覚していなかった。わざわざ言っても仕方なかっただろう。多分誰にも落ち度は無かった。僕が轢いていてもおかしくなかった。そんな話を少しした。人間よりも動物が好きと言っていい人だから、ひょっとしたら存在し得る(加害者的彼らに対する)憎しみを少しでも減らしたいと思った。返る言葉にそんな素振りもなく、ほっとする。

彼女を家に送り、自宅に戻り、所々血で真っ黒になった服を脱いでゴミ箱に捨てた。そのままシャワーを浴びてベッドに入った。

 

翌朝会社に向かおうと車に乗り込んでようやく、車内を充たす強烈な血とアンモニアの臭いを知った。昨晩は平然を装ってはいたがやはり極度の緊張状態だったのだ。触れなくていいことにわざわざ触れたばかりに僕は、丸2日間胃液を吐き続けた。恋人には仕事に行っている風体の嘘をついた。